松本の街には、古い家が多い。
もちろん、そこにもここにもというわけじゃないのだが、しかしふと気づくと「ああ、ここにもあるな」というようにある。野道のタンポポに近い。かつて養蚕で栄えた時代の名残である蔵は、ちょうど野に咲く花の様に街のあちこちに点在していた。
だからだろう。古き良き、を求める人の性は、そういったものをついつい保存したくなる。あるものはカフェ、またあるものは憩いの場。
そして、またあるものは古本屋。
俺がよく行くその店、BOOKS電線の鳥は、そういう店だった。
***œ
「お待たせしました」
店主の優しい声音とともに、ブレンドコーヒーが置かれた。ソーサーにはカップの他に、小さなクッキーが添えられている。乾いてサクサクのそれが、このコーヒーには実によく合う。
古民家を改装した自宅兼店舗のこの店には、椅子というものがほとんどない。畳敷に敷かれた座布団に胡座になり、俺は最初の一口をゆっくりと飲んだ。どこと言って気取ったところのないコーヒーだが、しかし老舗の純喫茶のように格調高いわけではなく、味覚に寄り添うような柔らかさがある。知らず、ほう、と息が出た。
店内には、絞られた音量の洋楽がかかっている。どこの誰の歌か分からないが、しかしただジャズを流すのとは違う、腰を落ち着けたくなる響きだ。だから、ここではゆっくりまどろむように過ごすのが常になっている。
平日の昼下がりだった。珍しく休日を手に入れて、しかし特にやることもなく、さりとて家にこもっていても心が腐ってしまう。そんな時にこの店はぴったりだ。どこかに出かけているのに、家にいるような安心感があり、ゆったりと寛ぐことができる。それはこのコーヒーのおかげでもあり、店先に咲くパンジーのおかげでもあり、店の隣に建つ床屋の気配のおかげでもあり、簾から吹き込む穏やかな風のおかげでもあり、そして本のおかげだった。
首の動きだけで見渡せる小さな店内に、ぎっしりと並べられた数々の古本たち。小さく作られたブースにも、壁際の本棚にも、天井付近を一周する棚にも、かつて誰かの手に取られた本たちが静かに立ち並んでいる。隔てるものなく続く、仕事場を兼ねた隣の部屋にまでも続く、どこかの誰かの欠片たち。
ここには、人の息遣いがある。生の跡がある。
だから、こんなにも安らぐのだろう。
ここに来るたびにいつも、漠然とそう思っていた。
店主が隣の部屋で仕事を始めたのを横目に見ながら、俺は立ち上がってゆっくり本たちを目で追っていく。壁ごとに分類されたそれらは、新品でないことが分かっている分余計に手にとりやすい。その中から、ふと目についた一冊を手に取ろうとした、その時だった。
背後で、人の気配がした。
振り向くと、やはり男性が一人、部屋の中に侵入していた。
この店は、俺が今いる部屋まで入るのに最低でも二つの扉を開ける必要がある。しかも間口には来客用に、来店を知らせるための小さなベルまで置かれている。よしんばベルに手を触れずとも、ここまで入って来る際に気が付かないはずはない。なのにその男性は、まるでそれが風が吹くことと同じ、当然のことだ、というような雰囲気を纏って部屋の本を物色していた。
天井近くの棚から、一冊の漫画本を手に取った男性が、そこでふと顔を上げた。本のタイトルは『風呂上がりの夜空に』。RCサクセション、はるか昔にいなくなったバンドだ。時代を感じさせるパロディだった。
「何か?」
「あ、いえ」
「失礼、挨拶もなしで上がってしまって」
「いえ、俺は店の人間じゃないですから」
「でも、驚かせたようですからね」
「大丈夫ですよ」
できうるかぎりの笑顔を俺がすると、男性も微笑んで腰を下ろした。明らかに勝手知ったる、という動きだ。つられて俺も腰を下ろす。簾の下がった窓の向こうから、涼風が静かに吹き込んでくる。初夏の午後、梅雨が近づいていることを示すようにわずかに湿り気を帯び始めてはいたが、それでも乾いた松本の風はとても爽やかだった。
改めて見ると、ずいぶん時代錯誤な姿をした人だった。身につけているのは麻でできた水色の甚平。髪も今風の刈り込みなどなく、セットするわけでもない蓬髪のまま。しかしそれでいて、間違ったお洒落をしているわけでもなく、ごく自然にそれを着こなしている。民家を改装した店だからか、もう少し先の季節に軒で風鈴を吊るせば随分と絵になるだろう、と思えた。
「常連さん、ですか?」
それだけ様になるにも関わらず、俺はここで彼を見かけたことがない。だから、そう問うてみた。それに反応して、男性は視線を上げる。どちらかといえば、人懐っこそうな目だ。
「ええ、まあそんなところです。あなたは?」
「ちょくちょく、来てますね」
「不思議と、縁がなかったわけですか」
「そういうことになるんでしょうかね」
クスリと、男性がほんの少しだけ微笑んだ。目につきにくい微笑みを自然にできる人間というのも、そうはいない。それだけでも、いい人間なのだとわかる微笑みだ。
「何も飲まれないんですか?」
今度は、男性の方がそう訊いてきた。そこでふと机の上を見ると、さっきまであったはずのコーヒーカップがない。いつの間に下げられていたのだろうか。マスターの細やかな気配り、とは違う違和感があった。
「あ、いえ。コーヒーを飲んでたんですが」
「なら、おかわりはどうです?」
「飲めるものなら飲みたいですが……」
「では、僕の分も用意してきますので、ついでに作ってきましょう」
そう言って、男性が立ち上がる。慌てて、俺は声をかけた。
「あ、あの、店の人を呼べば……」
「今出かけていらっしゃるんですよ。大丈夫です、僕はここのことには詳しいですから」
男性は朗らかに言ってキッチンの方へ向かってしまう。しかし確かにその言葉通り、狭い店の中に人の気配が少なかった。いつの間に店主も奥さんも、どこへ行ってしまったのだろう。それとも、気配も感じ取れないほど疲れているのだろうか。だが俺の体には、疲れとは無縁の軽さしかないのだが。
いや、それよりも。
本の匂いが、濃くなっている。窓の外の音が、違う。腰を下ろした座布団も、何か柔らかすぎるように思える。
ここはどこだ?
い 今どこにいる?
混乱に呑まれて黙り込んでしまった俺の鼻腔を、芳しい香りがうった。瞼を押し開くと、目の前には見慣れたコーヒーカップがある。白い湯気を立てる、薄緑から生まれた茶色の液体。机を挟んだその先には、またいつの間にか男性が戻ってきていた。
「どうぞ。僕の我流ですから、お口に合うか分かりませんが」
「あ、いただきます」
ほとんど反射的にカップを取り、最初の一口を口腔に送りこんだ。とたん、突き抜けるような苦みを感じた。だが、それを包み込むのは芳醇な果実の香り。そして喉の奥へ送り込むと、最後に残ったわずかな酸味がそれらを一つにまとめてくれる。飲んだことのない、でもそれでいて覚えているような、とにかく懐かしさを湛えた味わいだった。
「いかがですか?」
「……とても、美味しいです」
「それはよかった」
微笑んで、男性は自分の飲み物を口にした。背の高いグラスに注がれたそれは、どうやらサイダーらしい。ここのメニューに、サイダーなんてあっただろうか? でも、自分のコーヒーと対照的な透明の泡には、そそられる何かがあった。
「随分、ここに詳しいんですね」
一歩、こちらから踏み込んでみる。そうしないことには、この混乱は無くならないと分かっていた。
「当たり前の話ではあるんですよ。何せ、今の店になる前は私の家だったんですから」
「え?」
家だったこと。それだけなら今更考えるまでもない。だが、前の住人だったとは思わなかった。
しかし、それにしては。
「私はここで生まれ育ちました。元は養蚕を営んでいた祖父の家だったんですが、父が結婚してからもそのまま住んでいましてね。蔵もそのまま残して、亡くなるまでずっと住んでいたんです」
「そうだったんですか。じゃあ、とても懐かしいでしょうね」
「ええ、もちろん。蔵に続く小さな庭があるでしょう? あんな小さい空間でも、私や妹たちにとっては立派な遊び場でした。今となってはよくもまあ、と思うものですが、いくつも遊びを考えては、母に叱られるまで騒いでいたものです」
部屋と窓に区切られて見えない場所を見つめ、その光景を思い描いているのだろう。映画でも見るように目を細めながら、男性の話は続く。
「きょうだいが多かったので、ここと隣の二つの部屋が私たちの空間でした。お互いに本や人形や、とにかく何でもかんでも並べてね。ここからそこまでが自分の場所。あそこから向こうまでが弟の場所、というように領土を作るんです。でも下が生まれるたびに、新しい場所を用意しなくちゃならない。当然お互いに空間が減るのは嫌だと言って、喧嘩になるわけです。まあ、一番年上だった私がいつも折れて譲っていたんですが」
「優しいお兄さんだったんですね」
「だといいんですがね。高校に上がってから生まれた末の妹などは、あまり構ってやれませんでしたし」
また一口、コーヒーを飲んでみる。さまざまに浮かび上がって来る味わいを、最後にまとめて消えていく酸味。それがきっと、この人の部分なのかもしれない。
「そんな具合で家族が多かったので、食事の時は二部屋に分かれました。この部屋で下の子供たちと母が食べ、あちらの部屋で父と上の子供たちで食べるんです。父はあまり喋らない人でしたから、騒がしいこの部屋と明暗がくっきりした食卓でしたね。特に私が中学生の頃は、あちら側の人間は皆反抗期でしたから、そりゃあ居:心地の悪いこと悪いこと」
「どこの子供もそれぐらいの頃は、親と向き合いたくないものじゃないですか?」
「ああ、あなたもそうでしたか?」
「恥ずかしいですけど。俺も父が苦手でした」
「よく分かりますよ。まして誰かへの説教が始まったりした日には、食事もそこそこに二階へ逃げ出しましたからね」
二人で笑い合う。誰かのそんな話を聞くのは久しぶりだった。この街に移り住んだ人間である俺には、そんな相手もいなかったのだ。会社の同僚や先輩とは、当たり障りのない話しかしない。でもこの初対面の男性とは、不思議となんでも話せる気がした。立ち上るサイダーの泡に導かれるように、こちらも言葉が口をついて出てくる。
「今のこの店は、どう思います?」
「家のまま残してくれましたからね。足を運ぶたびに、懐かしさで胸がいっぱいになりますよ。弟が学校から帰るなり、靴も揃えずに二階へ駆け上がって父に挨拶していたこと。怖くてトイレに行けないと言う妹を連れて、夜中にあのトイレのドアの前に立っていたこと。母がカレーの隠し味に使っていたトンカツソースの匂いだって思い出せる」
「ならきっと、とても居心地がいいでしょう」
「そうですね。本当の実家ですから。あなたには、そういう場所がありますか?」
尋ねられて、俺はそっと目を閉じる。すぐさまに会話を続けなくてはいけないわけじゃない。だからぼうっと、頭蓋骨の中を漂う靄を探ってみる。光は、あるだろうか。
「……あまり、思いつきませんね。兄弟がいなかったせいでしょうか」
「では、思い出などはあまり?」
「思い出せませんね。うちは両親共働きで、あまり一緒に過ごしたことがないんですよ。父は会社の役職持ちで、母は看護婦。休日出勤もザラにありました」
「いつも、一人だったと」
「家も都心のマンションでしたし、自分の家、という実感は薄かったですね。どちらかといえば、いるしかない場所、と言えばいいんですか」
「家も、家族も、それぞれですね」
彼がサイダーを口にした。少しだけ残った俺のコーヒーは、冷めつつある。最後と思って、それを口に含んだ。それでも、何一つ損なわれてはいない。俺の思い出とは、対照的だ。
「実家には、お帰りになられたりしないんですか?」
「もうしばらく帰ってません。こっちに移ってから、帰る理由もあまりなくて」
「僕はずっとここに住んでいましたからねえ。そういった感覚はあまり解しませんが」
「帰るべきだっていうのは、分かるんですけど」
「それぞれあって然るべき、と思いますがね、僕なんかは」
なんだか、違う世界の人間と話しているような感覚だ。でも、だからこそなのだろう。下手に共感されたりしないから、話せることがある。分かるわけじゃないから、伝えられる実感がある。別のものだから、気負わずにいられる。
「決めつけすぎ、なんでしょうね。俺は」
「迷ってもいいじゃありませんか。それは、生きているものの特権だ」
「向き合うべきだ、と?」
「そこまでは言いません。ただ、その温かみを知る人間としては、あるといいものだ、と言いたくなってしまうんですよ」
余計なお世話と、理解してはいるんですがね。
空になったサイダーのグラスを、彼はそっとテーブルに置いた。また、風が吹き込んでくる。手元の本に目を落とす、彼の瞳はとても澄んでいた。
「この漫画、私のものなんですよ」
「え?」
「知っている以上のこの家に、何か一つ、残してみたくってね。だから、御店主にお願いして置かせてもらったんでっす。別に売ってもらって構わない。ただ置いてみたいだけなんだと、無理を言って」
「そうだったんですか」
「まだ売れていなくて、正直ホッとしました。もうここに集まることもないですから」
「ご兄弟でも、集まらないんですか?」
「皆就職や上京で散り散りでしてね。父と母が亡くなったあと、ここに住んでいたのは私だけでした。そして私も、もういない」
再び、違和感が首をもたげた。この家の古めかしさに比して、目の前の男性はどうみても二十代だ。やはり、少し若すぎる。
いつの話なのだろう。
今は、何時だっただろうか?
窓の向こうにふと目をやっても、太陽の光は未だ明るく、時間を知らせる手がかりになってはくれなかった。
「もうお帰りになるんですか?」
不意に、彼が問いを発した。
「え?」
「今、窓の外を気にしていましたから」
「あ、いや、急いでいるわけではないんですけど」
「……しかし、そうですね。そろそろ時間でしょう」
そう言って、彼は腰を上げた。そのまま自分のグラスと俺のカップを取り、キッチンの方へ歩いていく。姿が隠れてすぐに、水音が響き始めた。血のように心をめぐる違和感に背を押されるように自分も立ち上がり、俺はその影を追ってキッチンへ向かい問いを投げた。
「時間、とは?」
問いは、キッチンの壁に当たって跳ね返った。
誰もいない。
空のカップも、グラスもない。
「そろそろ、家族が帰ってきます」
答えは、跳ね返ったその先、さっきまでいた部屋から聞こえた。
「あなたも、お帰りになられたほうがいい」
いや、姿はない。
影も、気配もない。
玄関か?
二階か?
それとも、表の道からか?
「楽しかったですよ。久しぶりに思い出話ができた」
「あ、あ……?」
「でも、これからは自分のご家族としてください」
もう、家に帰る時間です。
狭い部屋の中、駆けるほどの場所はない。急いで玄関まで出ても、そこに人の気配はない。
どこだ?
いつだ?
なんだ?
「ほら、雨が上がります」
雨?
外は晴れている。
「いいえ、その雨ではありません」
あなたが降らせた、雨ですよ。
その言葉が、最後に聞こえた言葉だった。
でもそれを聞き届けるより前に、俺はドアノブに手をかけていた。
扉が開く。
光が溢れ出る。
別の世界、いや、元の世界の光が。
視界が白くなる。
眩しさに目を閉じる。
ここは。
ここは?
***
白いはずの視界が、真っ暗になっている。
体が揺れる。いや、重い。
瞼が、じわじわと上がっていく。
「ん………?」
目には、さっきまでと同じ景色が映った。BOOKS電線の鳥、そうだ、あの本の山は覚えている。この間持ち込まれたと言っていた。まだ値段のついていない本たちだ。
ぼんやりと顔を起こす。まだ音楽が鳴っている。
コーヒーはどうした?
ぼんやりとはっきりしない意識のまま、身を起こした時だった。俺の視界の中に、ふと見慣れないものが映り込んだのが分かった。
目の前のテーブルに、さっきまでなかった何かが置かれている。小さなビニール製の袋。中に何か入っている。取り上げてみた。
煮干しだ。
なぜ、煮干し?
「お目覚めですか」
そこで、左側から声がかかった。首を曲げると、見慣れた店主の顔がある。
「よくお眠りでしたね」
「……眠ってた、んですか?」
「ええ、二時間ほどぐっすりと。他にお客様もいらっしゃらなかったので、そのままにさせてしまいました」
俺は、眠っていたのか。
だとすれば、さっきまでのは。
あの男性は––––
ゆっくりと頭を振ったとき、手元に置きっぱなしになっていた本の表紙が目に止まった。つまり、俺は本を読んでいる途中でそのまま寝てしまったのだろう。確かに、内容を覚えている。
タイトルは『四畳半王国見聞録』だった。森見登美彦。俺が学生時代から愛読している作家だ。店に持って来ていたのを思い出した。開かれているページは『蝸牛の角』の部分だった。
意識が、はっきりしているはずなのに、混濁している。
「……この、煮干しは?」
「ああ。うちは、本とコーヒーと、うたた寝の店、なんですよ。ですからうちで眠ったお客様には、こういった粗品をお渡しするんです。実際にお渡ししたのは、随分久しぶりですが」
「久しぶり、ということは、前にもあったんですか?」
「ええ。大学生の方でしたが、今お客様がいらっしゃるところでね。ただあちらは、仏陀みたいにごろんと横になってでした」
脳裏で、誰かがタイの寺院にある金色の仏像のように、ここでまどろんでいる光景を想像してみる。思い描いてみると、それはなかなか奇妙で、しかしマッチした光景にも思えた。確かにうたた寝の店を謳う通り、眠るには申し分ない落ち着きと安心感がある店だったから。
ただ今、俺の中に去来する落ち着きは、それとは少し違っている。
あの、とてもリアルな夢でもらってきたもの。
実家。家族。思い出。
「すいません、長々と」
「いえいえ、とんでもない」
「お会計で、お願いします」
「かしこまりました。コーヒーで、四百円ですね」
そこで、ふと思い出す。
漫画だ。
まだあるだろうか?
顔を回らすと、あった。ちょうど出入り口の上あたりに、揃いで並んでいる。
RCサクセションのパロディ。その曲を聴いたことはあっただろうか。
『風呂上がりの夜空に』。小林じんこ、という名には、やはりと言うべきが覚えはなかった。多分、俺が生まれていない頃の話なのだろう。
「それと、あそこの漫画をいただけますか。全部」
「かしこまりました。揃いですと、三千円ですね」
財布を取り出して、中を見るとちょうど小銭が余っていた。それと札で支払いを済ませ、玄関へ向かう。やはりそこにも、知っている景色があった。間違いなく、BOOKS電線の鳥だ。俺がよく来る、古本屋兼喫茶店。本とコーヒーと、うたた寝の店。
そしてかつては、誰かの実家だった。
「ありがとうございました」
「また来ます」
外に出ると、そこはもう夕暮れだった。確かに、そこそこ長い時間眠っていたようだ。力を込めにくい足を踏み出す。いつも通る道。アスファルトの踏み心地。何一つ違和感はない。あるとすれば手に持った漫画入りの袋と、ポケットに入れた煮干しだろうか。
店の前の道は、北側がすぐ通りに通じ、南側は細く伸びている。俺は南側を選んで歩いた。二つ目の丁字路のところに、小さな公園があるのを知っている。そこで、少しぼうっとしようと思っていた。
一分ほどですぐに、公園にはたどり着く。時勢か、誰も遊んではいない。あの思い出話とはずいぶんかけ離れている。自分の脳で考えたにしては、やけにリアルな話だった。それはいつ頃のことだったのだろう。それもまた、俺が生まれる前に違いない。
そう考えながら俺が公園に足を踏み入れると、公園には先客がいた。
毛並みの綺麗な、三毛猫だ。首輪がないところを見ると、野良らしい。行き場がないのか、それとも自由人ならぬ自由猫なのか。宝石のような目でこちらを見て、鳴くでもなくふわぁ、と欠伸をしていた。
普段の俺ならそんな気は起こさない。しかし、あの夢に当てられたのかもしれない。
本の袋を持ったまま、俺は猫に近づいて、そっと煮干しを取り出した。袋を開け、いくつか掌に乗せて猫へ差し出す。
「いるか?」
三毛猫は少しの間じっとそれを見つめ、そして思っていたよりもずっと早くそれを口にした。美味い、と言うわけでもなかったのに、実に美味そうに食べるものだ、と思った。俺も、一つそれを齧ってみる。うたた寝の粗品に相応しい、それ以外に言いようのない味がした。
やがてもう三つ煮干しを平らげると、三毛猫は満足したように、ミャア、と鳴いてから公園の外へ出て行った。礼を言われた、と思ってもいいのだろうか。たまの気まぐれもしてみるものかもしれない、と、俺にしてはらしくないことを考えた。
だから、きっとその後の光景は、俺の気まぐれが見せた幻だったのだろう。
だから微かに、雨の匂いがしたのだろう。
『兄ちゃん!』
猫が、その声を出したのかと思った。
さっきまで猫が歩いていた場所を、今は小さな女の子が走っている。目の前の道をまっすぐに、店の方へと走っていく。俺は、思わずその後を追って道へ出た。
女の子が、笑いながら走っていく、その先。
ちょうど店の前のあたりに、男性が一人立っていた。
水色の甚平を着た、人懐っこそうな優しい目の男性。
女の子がその胸に駆け込むのを、男性はかがみ込んでそっと抱き止めた。そして二人で手を繋ぎ、家の中へと入ろうとする。
その刹那、男性がこちらを向いた。
柔らかく微笑んだのが、こんなに離れていてもはっきりと分かった。
家の中からは、楽しそうな声が聞こえる。
朧げなその姿が消えたとき、俺は道に一人で立ち尽くしていた。手には、少しだけ残った煮干しの袋と、漫画の袋。二、三度目を瞬いても、一向に今見た景色は消えない。
別の人。
別の世界。
それは、あの家のような店が見せたのだろうか。
俺は首を振る。
午睡なんてことをしたのは久しぶりだった。だからついつい、妙な妄想でもしたのだろう。きっと何もかも気のせいなのだ。
しかしそのくせ、確信めいたものが消えなかった。
雨が止んだ、という確信が。
身を翻し、道を歩き出しながら、俺はポケットに煮干しをしまった手で携帯を取り出した。躊躇わず、番号を押してコールする。相手は、四コール目で出た。
なんだ、こんなに簡単なことなのか。
『もしもし?』
「……久しぶり、父さん」
あなたとは、どんな思い出があっただろう。
青空や雨を、一緒に見ていただろうか。
空が晴れている。
今度は、いつ帰ろうか。
実家へ。
たった一つの、家へ。
帰ったら、また眠ろう。
夢を見るほど深く、安心して。
家族で、午睡の時を過ごそう。
荘子に曰く、蝸牛の角には世界があるという。
その数は、ときに一千とも云われる。
作:野田健心(流 訊)
Twitter @K2sNagare